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大車輪5 -『アエネーイス』を焼く-

 パンを焼く、炭を焼く、あるいは土を焼いても、陶磁器、煉瓦と、品物が出来上がる。
 世話を焼く。世話をかける相手次第では、火傷はしなくても手を焼くことがある。ほかにも、焼餅を焼く。こちらは焼いても食べられないが、ご注意召されよ。別名に、嫉妬、悋気。
 家を焼く、となるとこれはもう一大事。やっぱり火災保険に入ろう・・・・酸鼻であれ、賛美であれ、心動かされる場面に遭遇した者は情景を目に焼き付ける、胸に刻む、たとえ傷痕が残っても表からは見られず、傷口や火口は過去から未来に向かって開かれる。
 けれども今月のタイトルに上げた「焼く」というのは、いずれにも属さない。作家が自らの作品を自らの手でなきものにすること・・・・ただし史実ではない。少なくともそのまま実行されてはいない。詩篇『アエネーイス』はラテン文学の最高傑作として、今日に伝わる。だが作者ウェルギリウスの最期を描くヘルマン・ブロッホの長篇、その第二部「火——下降」の一節の結びにこう書かれている。

「彼の胸から辛うじてこのことばが洩れでた、ひと息に、ただひとつの吐息、ただひとつの叫びとなって、このことばが洩れでてきた——「『アエネーイス』を焼こう!(Die Äneis verbrennen!)」」(144頁)

 実行には至らないこの意志が何ゆえここで表明されたのか。答えは、同じ第二部の終わり間近になって示される。

「人間的なもの(das Menschliche)、人間的な行為(menschliches Tun)と人間的なよるべなさ(menschliche Hilfsbedürtigkeit 人が救いを求めてやまぬこと)とがおよそ無意味なものと思われたために、そのほんの一端さえ彼には愛情をこめて確保することも、いわんや詩に定着することもできなかった。そしてすべては書きとめられぬままに終わり(alles unaufgeschrieben geblieben war)、ただ空しくも美の壮麗へと理想化されて崇められたにすぎなかった(lediglich unnütz zur Schönheit verklärt und verherrlicht)」(185頁)

 詩人は描くべき対象を正確にとらえることができなかったからしくじったのではない。あるいはとらえる対象を取り違えたから、作品の廃棄を決意したのでもなかった。彼がとらえようとした対象は変わらない。それは「人間的なもの」であり、その行いであり、救済を求めてやまぬその境遇であった。しかしながらそこに具わるべき意味が見出されないことに、創作の手を休めた詩人は気づいた。そうなるとあとには美辞麗句を連ねた抜け殻だけが残される。そんなものを自作として遺したくない。そこから詩人の絶望が表出する。「おのが作品を破棄せねばならぬ言葉の職人(der Wortemacher, der sein Werk vernichten mußte)」となって。

 ウェルギリウスの遺した『アエネーイス』には、主人公のアエネーイスが冥界へ下る場面が描かれる。一方、ブロッホの『ウェルギリウスの死』の第二部では、古代ギリシアの伝説上の詩人オルペウスによる冥界行きが綴られる。それによるとオルペウスも行く手に言語を求めた。「直接の善意にあふれた素朴な言語(schlichten Sprache unmittelbarer Güte)」、「直接にふれてくる人間的な美徳の言語(Sprache der unmittelbaren menschlichen Tugend)」「覚醒をもたらす言語(Sprache der Erweckung)」、それはウェルギリウスが自作の詩篇で描こうとした時の言葉にも通じる・・・・だがここにも絶望が待ち受けた。

「彼(オルペウス)もまた、芸術家には人間的な義務をはたすことができないと知った、それを知って絶望した人間(Verzweifelter)ではなかったか?」(109頁)

 では、ウェルギリウスとオルペウスが詩人として記述に挑み、そしてともに絶望に追いやられた「人間的なもの」とは何なのか。いったい何がそれを、それについての詩的な叙述を、意味のないものへ貶めるのか。ブロッホの記述を注意深く読み直してみると、その回答、少なくともそれについての強い暗示が、同じ第二部の書き出しで提示されていたことに読者は気づくだろう。

「人間の生活とは影像の祝福と影像の呪いのもとにいとなまれるものだ。ただ影像においてのみ人生はみずからを把握することができる、影像を放逐することはできない・・」(60頁)

 この「生活」は「現実」と言い換えても構わない。この引用の直前にはこんな一文も見える。

「われわれに到達可能な最終最高の現実が単なる記憶の影像(Erinneringsbild)にすぎないとは、ほとんどありうべからざる、というより許すべからざることのように思われた。だがそれにもかかわらず、人間の生活とは影像の祝福と影像の呪いのもとにいとなまれるものだ。」(同上)

 現実が記憶の影像にすぎないとは、ジークムント・フロイトからの弛まぬ磁力だろうか。ひょっとして絵画のみ、動かざる造形芸術のみがそれをとらえるのか。人間の生活が「単なる記憶の影像にすぎない」とは、含蓄深くも囁かれるべき、影の、影からの言葉ではないのか。影像(Bild)は決して詩によって描かれることがなかった。その描かれないものによって現実の生活は呪縛されていく。それでもなお書き継がれるであろう詩作の営みに対して、第二部の後半では赤裸々な通告も下される。そこに込められた歴史的な奥行きがなおも計り知れないものを予感させてやまない。

  「詩の外套は猥褻である(unkeusch ist der Mantel der Dichting)」(153頁)

 この一文、4年後に公表されたアドルノの著名な一文とも照応する。

  「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である。」(1949)

 両者が、容易に光も放射線も通さないと言わんばかりの、双生のプリズムをなして。

 さても今宵また猥褻のオーバーをまとうや、星月夜ばかりか、いまだ射すことも知らぬ朝日の渦中にも身を移し、高々と謳い上げる者なら後を絶たない。ただし、原稿を「焼く」のではなく、今では「消去する」、「削除する」、あるいは思い切って「毀す」と言ったほうが耳障りもよく、もっとリアルに響く。「それでも必ずどこかにデータが残る」と、オルペウスの声が折り重なる。冥界でもなく、私たちの見知らぬところから盛んに言い立てる。

(アドルノの一文については、2016年12月の『エチカ
の立ち読みから』でもすでに言及しています。また、引用
のページ数は1966年に刊行された集英社の世界文学全集7
のものですが、僭越にも川村二郎氏の名訳に一部手を加えた
ところがあることをお断りします。)

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2月24日 訪ねた山陰の温泉宿から→
暮れゆく東方の空を望む。
 
 
 

                


著者プロフィール

mensuel『一路多彩 -pluralité unique-』毎月10日公開
nina蜷川泰司(にながわやすし)

文芸作家。1954年京都市に生まれる。
長篇『空の瞳』(現代企画室)で2003年にデビュー。かたわら今日まで、通信誌やホームページに数多くのコラムや論評を執筆
『子どもと話す 文学ってなに?』(2008 現代企画室)
『新たなる死』(2013 河出書房新社 作品集冒頭の「コワッパ」はル・プチメック今出川店に取材する)
『迷宮の飛翔』(2015) 『スピノザの秋』(2017 いずれも河出書房新社)
この2点は長篇の連作『ユウラシヤ』のプロローグと第1部にあたる。
次回作品『ゲットーの森』(仮題)は2019年に刊行の予定。